ブログ「モノディアロゴス」
6月25日の記事から転載 意外や意外! 『 今朝の新聞第一面を見て、驚いた。 原発避難者調査で、原子力発電を利用することに反対70%、賛成26%、その他・答えないが4%だったという。 驚いた。これをまとめた新聞(記者)自身は特に驚いている風には読めないけれど、私自身は実に驚いた。 私の予想は、反対85&%、分からない・答えないが15%で、賛成など一人もいないだろうと思っていたからだ。 私の予想通りだとしたら、どこかの知事さん、なんてぼかす必要も無いか、石原都知事なら、またもや集団ヒステリーなどと言ったかも知れないが、実際のアンケート結果に都知事がどう反応したかは知らない。 たぶん妥当であると見ているか。 あるいはどこかの新聞の編集委員氏のように、これは市民の成熟度を示す数値だとでもコメントしただろうか。 それで本当のことを言えば、このアンケート結果を見て、かなりきついことも言わなければならないので、偽校長、偽市長、さらには偽総理に倣って、今回は一人の偽避難者をでっち上げ、彼女(彼でもいいが)宛ての私信を装おうとしたのだが、その人物像設定がどうもうまくいかない。 たとえば彼女はかつての教え子の一人で、だんなは東電の下請け会社の社員、子どもは高校生の長男と中学生の次男の二人、といった人物像を設定してみたのだが、彼女自身のイメージがはっきりしない。 もちろん私は小説家ではないので、それは潔くあきらめ、個別に問題点を指摘することにしよう。 たとえば、新聞などの避難者の近況を伝えるコーナーに、おやまあ、といった避難者がいる。 一例を挙げれば我が原町区のように家屋損壊もなく、電気も水も通っているのに、相変わらず福島市の避難所で暮しているような人たちのことである。 放射能が怖くてー、もう三ヶ月も家に帰れないでいるの、などと首を傾げたくなるようなことを言っている。 私が身内なら、おいおいもういいかげん避難所ごっこはやめて、家さ帰ってこねかー、と言うであろう。 放射能が怖いことは事実だろうが、しかしそれ以上に、自分がいま新聞・テレビで連日放送されているもっともホットな話題の渦中にいることに不思議な安心感を持っているとしか思えない。 「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心理である。 もちろん支援者からの親切、そしてそれまで触れ合うことの無かった人たちとの不思議な連帯感、それは確かにすばらしい、しかし一日も早く自分の足で、自分の判断で自立しなければならないのではないか。 避難所に現在何万人の人がいるかどうかは知らないが、私の予想ではそのうちの一割、つまり十人に一人は擬似避難者ではなかろうか。 もちろん私には、そのような人を咎める気など毛頭無い。 大きな括りでは被災者・犠牲者であることに間違いないからである。 しかしその人たちのためにも、一日も早く自立への道に踏み出して欲しい。 社会というものは(もちろんそこには報道する側が含まれる)、一見親切で思いやりが深そうに見えるが、しかし本質的には傍観者で無責任なものである。被災者の実情を顔を曇らせて報道していたと思ったら、次の瞬間、瞬時に頭を切り替えて、時にはにこやかな笑みさえ浮かべて「さて次のニュースは…」と、あたかも何ごとも起こらなかったかのように、冷淡に次の話題に移れる人たちなのだ(もちろんそれは職業的訓練の賜物なのだが)。 ときどき若いお母さんたちが、将来この子が被災者だったということで差別されたり結婚できなかったりしたら可哀相、などと涙ながらに話す姿を見かける。 それについてはだれも表立っては言わないが、そんな風評で差別してくる奴なんぞにこの可愛い娘をだれがやるもんかい!くらいの真の親心・気位を持って欲しい。 つまりそんな世間の風評や冷淡さをものともしない、たくましい、そして魅力的な子どもに育てることの方が、はるかに大事なことなのだ。 と言った具合に、老婆心ならぬ老爺心から言いたいことはたくさんある。 しかし今日は、先ほどの問題に戻って終わりにしたい。 つまり被災者なのに、原発を今後も操業することに賛成する人たちにこれだけは言っておきたいのだ。 以前、貧しい炭鉱夫の一家を描いた映画「我が谷は緑なりき」に触れて言ったことだが、彼らは一家を支えるために、今日もまた落盤の恐怖におびえながら地下道に入っていく。 東電の社員も危険な作業だと分かっていながら、町には他の雇用が無いから、仕方なく原発現場で働いている。 しかしそこは決定的な違いがある。 つまり炭鉱夫の危険は自分ならびに同僚たちの死の危険だが、東電の社員の危険は(というより危険な作業は協力会社の社員がやるらしいが)、事故の場合、単に自分ならびに同僚たちの死だけでなく、たとえば今回の事故のように、自分たちと関係のない多数の人たちの生命や人生を奪う危険に繋がるということである。 正直言うと、今回のアンケート結果を見て驚いただけでなく、怒りをこめた悲しさを味わっている。 それほどまでに東電に恩義を感じているのか、そこまで東電によって洗脳されているのか、もっと辛辣に言わせてもらえば、それほどまでに自分たちの生活のことしか考えていないのか、という怒りである。 こんな辛く悲しいことを、だれもあえて言わないのか、それとも言えないのか。』[以上で、ブログからの転載を終了する] 五日ほど前に、私は「南相馬市に住む元大学教授の覚悟〈週刊現代7月2日号の記事〉」を要約して、このブログで紹介したが、その時に知ったブログ、「モノディアロゴス」を見るようになった。 わかり易い言葉で、淡々として日常生活を書いてゆくその筆力や構成力もさることながら、 老哲学者の眼差しの柔らかさと、論点の鋭さに、ただただ脱帽するばかり。 私も還暦を迎えて、ようやくにして枯淡の境地・・・などという思いが吹き飛ばされた。 生きる覚悟をしっかりと腹にすえた先哲の前では、私は門前の小僧に過ぎない。 私は、このブログでも再三、述べているように、「16歳の時から体外離脱を繰り返し、この世の終末を見た」と公言する変わり者であり、生まれながらの異端者である。大津波に次々に人々が家と町ごと呑み込まれていくテレビのライブ中継と、福島第一原発が次々と白煙を上げて爆発するニュース映像を見て、「もうすでに、世界は終わっている」とブログに書いた。 私の見た「異界の風景」と「異界からの眼差し」を60歳になって、ようやく語ろうとしているのだが、体外離脱を数百回も繰り返して往還した「あの世の異界」と、「この世の現世」を適切に表現する術(すべ)がない。 哲学者、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』がいう「語りえないことについては、沈黙しなければならない」を戒めとして、3.11まで守ってきたが、自らをシャーマンと位置づけて語ることにした。 私は世間がイメージする「終末論」や「黙示録」を語ろうと目論んでいるのではない。 そもそも、私が観た「世界の終わり」は、天変地異や戦争などの災禍によって人々が次々に死に絶えていく光景ではない。 このブログで、徐々に明らかにしてゆくが、実は「世界は、もうすでに終わっている」のだ。 これからどのような天変地異が起こるのか、起こらないのかに、関わらず、現世(うつしよ)は、すでに終わっている。 老哲学者のブログのタイトルである「モノディアロゴス」の由来が、ブログに記載されているので、ぜひブログで読んでいただきたいのだが、その由来の中で、スペインの詩人で哲学者のミゲル・デ・ウナムーノ(1864-1936)に関する記述があったので、ここに彼の文章を載せて本日のブログを終了する。 ウナムーノは書いている。 ~「スペインの哲学というものがあるだろうか? あるのだ、それはドン・キホーテの哲学である。」 「もしもドン・キホーテがふたたび世に戻るとしたら、羊飼いとしてであろう。 あるいは戻ってきたときに羊飼い、諸民族の牧者となろう。 そして彼は、愛が概念を与えることを求めるであろうし、概念を生かし勝利させるためには、かっては風車に突進したり漕刑囚たちを解放するために費したすべての大胆さと勇気を傾けるであろう。 そしてわれわれにとっていま彼が必要なのだ。 なぜならばわれわれをかくまで卑屈にしているものこそ、臆病な思考だからである。 それは永遠の問題に直面しまいとする臆病さであり、心の中を掘り下げまいとする臆病さであり、われわれの永遠の魂が有する内心の不安をかき立てまいとする臆病さである。~
★小出裕章が考える「原発と闘う小さな島の30年史」
2011.06.21 取材・文/足立力也、北村尚紀(ZaK SPA!)より転載。 『瀬戸内海に浮かぶ小さな島、山口県上関町祝島。約500人の島民が、主に漁業や農業を営んで生活している。’ 82年、この島の対岸3.5kmにある田ノ浦地区に、上関原発の建設計画が持ち上がった。 反対運動の中心として活動してきた漁師の山戸貞夫さんはこう語る。 「島の漁師たちが、中国電力に小旅行だといって伊方原発(愛媛県)に連れていかれ、原発の経済効果と安全性を説明されたんじゃけど…。 地元の漁師に聞いてみると、カネをもらったはいいけど、海の温度や海流が変わったからか、それまでみたいな漁ができんくて困っちょるという。 こりゃ海を壊すし、いかんわと思った。海はカネには換えられん」 地元8漁協のうち、祝島漁協だけが約10億円の補償金受け取りを現在まで拒否している。 「漁獲高に影響があるだけじゃなく、風評による値崩れも心配。それに、祝島では釣り客を漁船に乗せる遊漁業も盛ん。原発の前で誰が釣りをしたいかね?」(山戸さん) 島民のなかには、福島原発で働いていた者もいた。 原発での労働現場がいかに危険かを聞いた彼らは危機感を募らせ、「愛郷一心会」(現・上関原発を建てさせない祝島島民の会)を立ち上げた。 原発問題は町長選や町議選で常に最大の争点となり、建設推進派と反対派で町を二分する大論争となった。 島民たちは議会を傍聴のため町議会のある長島へおしかけ、推進派議員に抗議した。 毎週月曜日に行っている島内での反原発デモはもうすぐ1100回になる。 強行される中国電力の現地調査や工事に対して、漁師たちは漁船を出し、体を張って阻止行動を続けた。 原発建設の趨勢は止められなかったものの、こうした現場での奮闘が建設を遅らせ続けてきたのだ。 ’10年9月から、中国電力は本格的に田ノ浦の埋め立て工事を強行し始めた。 中国電力の作業員たちと祝島の島民たちが、海上で顔を合わせた。 双方激しく口論し、年配の女性が歌を歌って抗議する。 中国電力側は警備員を大量に雇って人間バリケードを作り、その中で作業を進めようとする。 その過程で、島の女性が作業員に押され、怪我をする事件が起きた。 現場にいた中国電力の社員は全く動かない。 結局、海上保安庁の船が搬送したが、これには島民も怒り心頭に発した。 福島第一原発事故後の3月15日、中国電力は工事中止を発表。 しかし、散発的に発破作業を続けるなど、事態は予断を許さない ある推進派の町民が口にした言葉が、山戸さんの耳にこびりついている。 「命が惜しくてカネがもらえるかね!」 原発建設計画が持ち上がった約30年前に比べて島の人口は半減、高齢化も進んだ。 仕事がないため若者が島に戻ってこず、医療や介護問題も深刻になる一方だ。 「カネを餌につけ込まれて原発経済・補助金行政に依存しないよう、経済的にも自立を目指さんと」(山戸さん) 山戸さんの息子・孝さんは、中学を卒業後、島を出て大阪で就職したが、島に戻ってビワを食べ、そのおいしさに「これで食っていける」と自信を持ち、Uターンを決意したという。 ビワは無農薬栽培で、葉を加工した「ビワ茶」も作り始めた。 ひじきや干し大根などとともに直販で高い評価を受けている。 「何とか軌道に乗ってきました」(孝さん)。 北海道で肉牛を飼育していた氏本長一さんもUターン組。 現在、祝島の代名詞のひとつでもある「棚田」の再生を目的とした循環型農業を実践中だ。 「島には、耕作放棄されて荒れ放題の棚田がたくさんあります。 まずそこに牛を入れて雑草を食べてもらいます。 その後で豚を入れると、土の中の草の根やミミズを食べようとして鼻で土を耕してくれます。重機などでやるよりもずっと効率がいいし、家畜の糞が肥料にもなります」 家畜の餌はほかに、売り物にならないビワや家庭の生ゴミ、畑で余った野菜などを与えている。 「おかげで、島外に送って焼却処分をしていたゴミの量も減り、一石二鳥です」(氏本さん) 安全な飼料を食べ、完全放牧で健康的に育った家畜はブランド肉となり、東京の一流レストランに高値で仕入れられている。 また、牛や豚が棚田から逃げないよう張り巡らされた電線は、自家用の太陽光パネルから給電されている。 島にはもう一つの悩みがある。 人口の約4分の3が高齢者。介護問題が重要な課題となっているのだ。 原発推進派の多い他の地域では補助金が投入されているが、どれもハコモノ建設ばかりで行政サービスは貧弱。 そこで、島民たちは自分たちで高齢者介護を完結させるべく、ホームヘルパー講習を集団受講した。 ’04年には約20人がホームヘルパー3級の資格を取り、’09年には約10人が2級を取得。空き家を利用した寄り合い所も建設中だ。 「民宿くにひろ」の国弘公敏さんはこう語る。 「行政に頼れば、そこにつけ込まれてしまう。 それなら島の年寄りは島の人間が面倒を見ようと。それに、そのほうがみんな幸せなんじゃないかな」 さらに島民たちは、エネルギー自給も目指し始めた。 孝さんが中心となり、「自然エネルギー100%プロジェクト」が始まったのだ。 「危険な電気の押し売りはいらない。 『結局、あんたらも原発の電気をもらっちょるじゃろが』と推進派からよく批判されますが、じゃあ自前で作ろうということになりました。 島内外から出資者を募り、その基金をもとにして太陽光パネルなどでエネルギー自給しようというものです」(孝さん) 環境エネルギー政策研究所(!SEP)など、外部団体もこのプロジェクトを後押しした。 孝さんは「でも、そもそも代案を出さなければ原発に反対してはいけんのじゃろうか?」と言う。 「代案がなければ危険を一部の人に押し付けていいというほうがおかしい。代案を出すよりも前に、反対する権利があると思う」 40年にわたって原発問題に警鐘を鳴らしてきた京都大学原子炉実験所の小出裕章助教は、以前から「上関原発の建設は実現不可能」と断言してきた。 その根拠とは何なのか? 「今まで上関に原発が建てられなかったのは、祝島の島民が行政・電力会社の圧力に屈せずに反対してきたからです。 単純なようですが、彼らがお金の誘惑に屈せず、自然とともに生きる島の暮らしを貫く限り、上関に原発はできないと考えていました。 原発を受け入れると、補助金事業などで一時は潤いますが、豊かな自然環境を壊された地元は、農業・漁業・観光産業が衰退してしまいます。 賛成派と反対派の争いのなかで、地域の繋がりまでも失ってしまう。 そして何もなくなった住民たちは、生活のためさらに原発を欲しがる…。 こうして、原発依存からずっと抜け出せなくなってしまうのです。 祝島の人々のように、一時のカネに左右されず、まっとうに生きること。 子供たちに残したい地元の姿を想像すること。それを目指すだけで、原発は不要になります」』 (以上で、記事の転載を終了する) 私は、瀬戸内海に浮かぶ小さな島、山口県上関町祝島の約500人の島民が、村の暮らしと豊かな海を守るために、さまざまな創意工夫をして、反原発を理念ではなく、具体的な手立てを尽くして貫いていることを、この記事で初めて知った。 島民の国や行政に頼らず自給自足する島民の強い意志の力は、何処からやって来るのか? 都市生活の便利さに飼い慣らされてしまった現代に生きる私たちのように、”誰かが何かをしてくれる”ことをあてにしない島民の生き方は、まるで海そのものだ。 私は、東京に行くたびに、詩人リルケの小説”マルテの手記”冒頭にある「人びとは生きるためにこの都会に集まってくるらしい、しかし、私にはむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えない」の一文を思いだす。 時間と空間を効率的に活用して生活することを、当然のこととして疑わない都市生活者たちの顔が、私には時として同じに見えて判別がつかない。 そこでは、自分の欲望でさえ、声高に言い立てる誰かの欲望を借りているようにみえる。 祝島の人たちのようにリアルな生活の場がないので、いつもモノを評価する尺度がお金に換算されて、お金を多く稼ぐ者が人生の成功者であり、公園に寝泊まりする者を目にしても、あのようには成らないと、視線をそらす。 もちろん、都会が悪く、田舎が良いと言いたいのではない。 私が2011年の9.11(世界同時多発テロ)の直後、ニューヨークのマンハッタンを歩いた時に目撃した、行方不明者の写真を掲げてうつむく家族たちの深い悲しみの眼差しと、この国の現代都市生活者の眼差しが一連の絵のように重なって見えるのだ。 生きて在ることの”リアルな実感”を喪失すれば、人はどんなに便利な場所に住んでいようと、魂を失う。 魂を失えば、生命をながらえても、人生を失う。 小さな島の住人が守ろうとしているのは命を育む海であり、大都市のために造られた原発が、その海を放射性物質で汚染している今の現状から、目をそらしてはいけない。
ライフの意味には、生命と人生の二つがある。
南相馬市に住む、元大学教授の覚悟。 「週刊現代7月2日号の記事を要約して、転載する」 『私の家は福島第一原発から約25キロのところにあります。 20~30キロ圏の「緊急時避難準備区域」とされましたが、私は避難しませんでした。 私は震災前から、福島第一原発から大量の放射線物質が漏れたら、逃げても無意味だと思っていました。 ロシアや中国など広い大陸なら、どこかに逃げ場所があるでしょう。 しかし、島国の日本にそんな余裕はない。 狭い国土にこんなに多くの原発を建設するのがいかに異常で愚かなことか、逃げ場所一つをとっても明らかです。 認知症の妻の問題もありました。 認知症が進んだ妻は、会話ができません。自分の名前も私の名前もわからない。 動きもままならず、日常生活にはすべて私の介護が必要です。 そんな妻は、とても避難生活には耐えられないだろうと考えて、無人の町の、一時は奈落の底のように思えた自宅に居続けることにしたのです。 《こう語るのは、スペイン思想研究科の佐々木孝さん(71歳)。三つの大学で教授を務めた佐々木さんは、定年前に退職して南相馬市に転居した。 以後、日々の想いを綴ったブログ「モノディアロゴス」は震災後に特に注目されている。》 原発は全廃すべきです。 人類が原発を作ったのは、パンドラの箱を開けて世界に災いを撒き散らしたようなもの。 困難でも早く箱を閉じ、以降は絶対に開かないよう封印しなければなりません。 原発の存在自体が「反自然」で、絶対に安全ということがなく、しかも出る有害物質が数万年も消えない。 そんなものを作って、地球にアバタを残すようなことは許されません。 「核廃棄物は地下300mに埋めれば安全」などと平気でいう人の頭が信じられません。 すべて再生エネルギーに切り替えるべきです。 原発を中心に、同心円で土地を機械的に輪切りにし、まず20キロ以内の警戒区域からは住民を追い出した。 私が住む地域は、「自主的避難」や「子供、妊婦、要介護者、入院患者の方などは、この地区に入らないようにすること」が求められるーとされた。 ふざけるな、と思いますよ。だって要介護者、つまり私の妻が、根拠のない線引きで家に住むなと言われているわけですから。 実際、老人や病人が避難を強いられて、ひどい目に遭っています。 ある病院からは、患者たちがカルテも付けられずに搬送され、十数人が亡くなっている。 こうなると医師法違反どころじゃない。 もっと重い犯罪ではないか。 老人でも、無理やり避難させられて亡くなった人が多いのです。 震災の2日後、母をグループホームから連れて帰ったとき、ホームにはまだ引き取り手のない老人が4人残っていて、本当に不安そうにしていました。 彼らは結局、原発から30キロ以上離れた伊達市霊山町というところに避難したのですが、今度はその霊山の放射線量が飯館村と同じくらい高いと問うことが判明した。 何のための避難かさっぱりわかりません。 福島に避難した人たちもいますが、福島市や郡山市の放射線量は、ここ南相馬原町地区の3~4倍です。 知人が南相馬市の職員に「福島や郡山はここより放射線量が高いのに、なぜ南相馬の方が緊急時避難準備区域に指定されているのか?」と聞いたところ、 「向こうを指定すると、ここの何十倍の住民を動かさねばならず、大混乱に陥るからです。わからないんですか!」と逆切れされたそうです。 老人や病人を無理に避難させて彼らの生命を脅かし、実際に死者も出しています。 あまりにも大きな政治のミスリードでありその責任は重い。 国民に「あっちへ行け」「こっちに行け」と命じる政治家や役人は腹立たしい限りです。 人間の自由と言うものを認めていない。 それへの怒りもあって、私は避難を拒否しているんです。 日本政府も南相馬市も、私たちにあれこれと命令する理由は「国民の命を守るため」だという。 しかし彼らは、もっと大切なものが在ることを知りません。 命を英語で「ライフ」というでしょう。 この「ライフ」なる言葉の意味には、生物学的な、「生命」と、「人生」の二つがある。 大切なのは、前者より後者です。 それは、すべての生物が「生命」を持つのに対し、「人生」を持つのは人間だけだから。 避難を余儀なくされた人も、飯館村など高い放射線量を記録している土地の人も、「生命」を維持できていますが、「人生」は奪われている。 そこが彼らの悲劇なんです。 単に仕事や家庭生活だけでなく、その地に生きていた先祖たちの記憶から、毎日人と交わす一つ一つの会話や笑顔まで、すべてをひっくるめた人生を突然失ってしまった。 原発が立地された町村の首長たちは、概ね推進派の先頭に立った。 ところが今回、原発が大事故を起こすと、その首長たちは一転して被害者のような顔をし、「東電に裏切られた」などと言っている。 「おいおい、その前にあんたたちはどれだけ潤ってきたのか」と怒りを感じます。 彼らはまず、自分たちの不明を詫びるべきです。 しかし、みんな被害者になり、誰も責任を取らない。 日本人の悪いところです。 こんなことをやっているから、政治がまったく国民と向かい合わないのです。 妻の認知症については、そんなに詳しく調べているわけではないんです。 効果的な治療法や薬があるのなら、すぐに病院や専門医を訪ねますが、無いのであれば行っても意味がない。私はそう思います。 要するに覚悟を決めたんです。 妻が認知症になった以上、ジタバタしてもしょうがない、と。 ちょうど原発事故の後、「みんなが避難しても、自分は逃げずに自宅に留まろう」と決心したのと同じですね。 同時に「妻とはいつも一緒にいよう」とも決めました。 家のなかはもちろん、散歩や外出するときも必ず一緒です。 そうすると不思議ですね。人間、言葉や記憶を失ってもどうってことはない、と思えてきます。 「認識できるかどうかなんてたいしたことではない。人間は存在するだけで意味があるんだ」と妻に教えられるんですね。 福島県の原発を全廃して、浜通りの美しい海岸を取り戻すために尽力したい。 同時に、自分が動ける間は妻の面倒をすべて見ながら、今後の人生を二人で生きていきたいと思います。』 〈以上で、記事の転載を終了する〉 感動にも種類があるが、私は本日買い求めた週刊現代の、この記事を読んで「静かな感動」をおぼえた。 75歳の彼が毎日のように書き込んでいるブログは「モノディアロゴス」というタイトルだが、その意味は「独・対話」であると、記されている。 ほぼ毎日、千字以内を唯一の条件として書かれた彼のブログには、気張らずに淡々として自分の人生を歩んできた人だけが身につく、「人生の知恵」に満ちている。 『命を英語で「ライフ」というでしょう。 この「ライフ」なる言葉の意味には、生物学的な、「生命」と、「人生」の二つがある。 大切なのは、前者より後者です。 それは、すべての生物が「生命」を持つのに対し、「人生」を持つのは人間だけだから。』 このように言い切れる人から、私たちはもっと学ばなければならない。 また、原発と妻の認知症の二重苦にあっても、 「認識できるかどうかなんてたいしたことではない。人間は存在するだけで意味があるんだ」と達観する腹のくくり方も、学びたい。 前回のブログに記載した、作家村上春樹の受賞の言葉もさまざまな示唆(しさ)にあふれていたが、「モノディアロゴス・対話」する老学者の人生を生き抜こうとするスタイルに、私は多くの勇気をもらった。 このブログは、「世界が、もうすでに終わったこと」を書いてゆくつもりで始めたが、「世界が終わるまでの人生を生きる」ことも書いていこう。
作家村上春樹の受賞スピーチ
スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家、村上春樹氏の受賞スピーチの原稿全文から一部を引用する。(ロイター通信の記事より) 『ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。 1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。 死者のほとんどが非武装の一般市民でした。 しかしここでは、その是非を問うことはしません。 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。 核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。 ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。 どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」 素晴らしい言葉です。 我々は被害者であると同時に、加害者でもある。 そこにはそういう意味がこめられています。 核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。 その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。 それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。 これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。 我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう? 我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう? 理由は簡単です。「効率」です。 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。 つまり利益が上がるシステムであるわけです。 また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。 電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。 国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。 そうなるともうあと戻りはできません。 既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。 国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。 原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。 そのようにして我々はここにいます。 効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。 それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。 我々は電力会社を非難し、政府を非難します。 それは当然のことであり、必要なことです。 しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。 我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。 そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。 そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。』 (以上で、引用を終了する) 村上春樹の最新作「1Q84」は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピア(反ユートピア)小説「1984年」をあえて連想させるタイトルである。 イギリスの作家、ジョージ・オーウェルはその作品で全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。 村上春樹の「1Q84」を読んだ方も多いと思うので、内容には触れないが、彼の代表作の一つ「ねじまき鳥クロニクル」とともに、村上ワールドを最も適切に表現する、すぐれた小説である。 村上春樹は、日常生活に潜む「奇妙な」物や、ずれ、逸脱する意識の変容をごくあたりまえの文体で描くことのできる稀有な作家であり、物語の舞台は、意識と個人的な無意識の境界線上で繰り広げられる。 「1Q84」の文中には、分析心理学のG・C・ユングの理論が、そのまま引用されている箇所がある。 私も、ユング心理学を長年にわたって学んでいるので、村上春樹の作品舞台が、「私たちが生活する日常(合意された現実世界)」から、「奇妙な事件や出来事」に導かれて、「個人的な無意識の世界」に場を移行して繰り広げられることに、注目しつつ作品を読んできた。 ここでは、彼の作品について論評はしないが、これまでの日本の作家のように、日本語のニュアンスと、その固有のレトリックに依存しない優れたストーリィテラーである。 物語を厳密に構築していく彼の才能は世界的にも大きく評価されている。 これからの作品に引き続き注目していきたい。 このブログに引用したスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチ原稿は、全体が、かなりの長文である。 そこでは幾つもの問題提起がなされているので、興味のある方は、インターネットで検索して全文を読んでいただきたい。 私がここで、一部引用した内容について意見を述べることは敢えてしない。 あなたが引用文を読んで、あなた自身の意見や感想を持ってほしい。 そして、あなたの日常生活が今、大きく変容していることに、気づいてほしい。 あなたの言葉で表現していくことが、あなたの世界を豊かにするだろう。 本日もブログを読んでいただきありがとう。 あなたに感謝する。
この世のことは、あの世で見る、夢の出来事。
ついさっきまで凛とした気配の朝であったのに、いまは随分と湿気を含んだ空気に変わって、窓から外を見やれば、陽がかげっている。 わずかな時間に、季節を巡らせる歯車が音も立てずに回ったようだ。 3・11の東日本大震災以来、私の時はこれまでのようにスムースには流れない。 当たり前のことが当たり前に営まれていた日常世界が、地震と大津波によって崩壊するさまを、テレビの生中継で見てからというもの、私の時間軸が日々、横滑りにずれてゆく。 金沢からは遠い陸奥(みちのく)の場所に在った大地の軋みが私に転写されたのか、鈍(にぶ)い痛みの感覚が身体じゅうに疼(うず)いて、これまでにない時を刻み始めた。 今夜の満月は厚い雲に覆われて、たおやかな光は地上にとどかないだろう。 9.・11の世界同時多発テロの後の10月の夜、私は、ラスベガス郊外にある自然公園の砂地の遊歩道から夜空を見上げていた。 《つい一ヶ月前に、ニューヨークでは悲惨なテロが起きていた。 私がマンハッタンを歩くときランドマークにしていたツインタワーから、逃げ遅れた大勢の人たちが熱に耐えきれずに飛び降り、やがて膨大な量の砂煙をあげてビルが倒壊した。》 砂漠の遊歩道から夜空を仰げば、満天の星が漆黒(しつこく)の天上に穿(うが)たれた小さな穴のように見えて、そこから天上世界の光がきらめきながら降り注いでいる。 照明灯のない自然公園の歩道が、清澄な大気を透かして丸い月から放射される明かりに浮かんで見える。 まるで曼荼羅の華のようにきらびやかで、荘厳な光に満ちたベガスの砂漠の夜。 同じアメリカのニューヨークの月は、「今も丸いのだろうか?」 そう思った時から私の身体軸が、少し斜めに傾(かし)いだようだ。 9・11から3・11までの時間が、瞬間にみえる。 この世の事象に潜む”神秘“は、あなたが心と身体を一つにすれば現れる。 あれとこれ、この世とあの世の二項対立は、あなたの分別(ふんべつ・分けてみること)のなせる業である。 心と身体もまた本来は一つなのだが、あなたはいまだに心を主人にして、身体を従卒(じゅうそつ)に貶(おとし)めているかもしれない。 そのように物事をわけて考える癖は、どこからやってきたのだろうか? 昨日のように、今日が来て、明日もまた同じような日々が続いてゆくという、あなたの思い込みは、3.11の大津波に生活の場所や手だて、さらには肉親の命までをあっさりと奪った災害をみれば、揺らいだに違いない。 心は、魂が人の肉体の一部である大脳の働きを通じて「この世」に意思として現れる作用であれば、心と身体を別けて考えることも、昨日と今日が同じような日であると無前提に信じ込むことも、幻想に過ぎない。 私の幼い二人の孫は、毎朝、目覚めて”新しい世界“に起き上がる。 幼い子供は、心と身体が一つなので、日々の生活に新しい何かを発見して小躍りして喜び、転べば痛みをこらえずに、泣く。 あなたは、耐えることが大人の態度であるとして、泣くときも笑うときも、心がリアルな体感を黙殺し、その自然な表現を抑圧してきたのかもしれない。 私は、”息苦しく生きる“大勢の人たちと関わってきたが、各人の症状は違っていても、 ”心身が分断された“まま生きていることは共通していた。 過食や拒食などの摂食障害(せっしょくしょうがい)は、その典型例であり、リストカットする少女は、自尊心の低さを肉体に向けて振りかえ、自傷行為を繰り返す。 ”息苦しい昨日のように明日がある“なら、”私のようなものが、今日を生きても仕方がない“と、深く絶望しながら、彼女たちは小さな今日の命を傷つける。 本当は、”生きていることのリアルな実感“を失った心の問題なのだが、「私の身体は私だけのモノ」であり、「私の身体は私に隷属するモノ」だから、手首を切っても構わないと嘯(うそぶ)く。 手首から血がにじんで、その痛みが体に起きて、はじめて彼女たちは、”生きていることの充足感“に満たされるのだという。 このような人が、自分の存在が実は「心身一如(しんしんいちにょ)」であることに気づくと、一瞬にして目に光がやどり、幼い子供のような顔になって、私にすがって泣きはらし、声を立てて笑い、そして世界を取り戻す。 これまで分断されていた世界が月のように丸くなって、陽の光を映すのだ。 私が、息苦しく生きる人たちに関わってきたのは、それまで病んでいた心に突然、光が差し込んで、心と身体が一つになって歌い踊りだす、その”奇跡の瞬間“に立ち会えるからだ。そのときに、私は”生きていることの神秘“を体験する。 ※ここで、分析心理学者、G・C・ユングの言葉を、『ユング自伝』から引用する。 ~「われわれが何らかの秘密を持ち、未知なるものに対する予感を持つことは大切なことだ。 それは、われわれの生活を、何か非個人的な、ヌミノースによって満たしてくれる。 それを一度も体験したことのない人は、何か大切なことを見逃している人である。 人は、自分が何らかの点で神秘的な世界に住んでいること、つまり、事象が起こり経験される中で、何ものかは説明しがたいものとして残り、すべての事象が予知されるとは限らないことを感知しなければならない。 この世界には予期されないことや、信じがたいことが存在している。 それでこそ、生が全体性を持つ。 私にとっては、世界は最初から無限に広く、把握しがたいものであった」~ 「ヌミノース」とは、私たちが味わう戦慄(せんりつ)や畏(おそ)れといった、魂が根底から揺さぶられるような体験のことを指している。 たとえば、すばらしい芸術作品に触れた時や、大自然の美しさの瞬間を目撃すると、私たちの魂は打ち震える。 言葉を失い、ただその美しさの前で、私たちは呆然(ぼうぜん)として佇(たたず)む、そのように、ハッとして息をのむ体験である。 幼い子どもが、毎朝、目覚めて「新しい世界に起き上がる」ようにして見れば、何の変哲もないあなたの日常世界が、実は奇跡や神秘的な出来事の連続によって支えられていることに気づくだろう。 奇跡や神秘は、あなたがいつも通いなれた道や、見慣れた風景の中にあふれている。 街路樹の葉に夕陽が透けて射し込み、風を受け、路面に影を落としてざわめくのを目撃したり、小さな花々が雑草の中で咲いているのを見かけたとき、あなたの目にはすでに光が宿っている。 神秘が日常生活に現れていることに気づくには、あなたが、「昨日のように今日があるとして生きる幻想」から目覚めて、赤子のように柔らかな眼差しで、世界を初めて出会ったかのように観るのだ。 「世界はいつでも変化の最中(さなか)に在る」ことに気づくと、あなたに光が宿って、その光が魂を揺らし、あなたの眼前に神秘や奇跡的な出来事となって現れるだろう。 「この世」のことはすべて、あなたが「あの世」でみている夢かもしれない。
この国の「あの世・幽冥界(かくりよ)」を紹介しておこう。
古代の信仰、風習、伝習の残存物の習俗を比較し、人類始源のアニミスティックな思考様式を研究する「民俗学」は、この国では柳田國男(やなぎだくにお)と折口信夫(おりぐちしのぶ)の二人がその礎となった。 歴史に名もない民の伝習は、「日常の生死」の背後に潜む幽玄(ゆうげん)で精妙な命の世界感を祭り歌や、独自の所作として受け継いできた。 民俗学は文化人類学に隣接して、やがて包摂(ほうせつ)されてしまうが、歴史学・宗教学・社会学とも密接に関連し、テーマによっては融合もする。 民俗学は、ラクジ的感性の世界感を表現する近場の学問体系である。 民俗学者の柳田國男と折口信夫は、この国の民衆に伝承された「日本人の他界観」を明確な文章に表わした。 復古神道(ふっこしんとう)を唱えた江戸後期の国学者、平田篤胤(ひらたあつたね)の幽冥論である「霊能真柱(たまのみはしら)」や、時代をさかのぼれば、鎌倉期の仏教僧である慈遍(じへん)が著した「旧事本紀玄義(くじほんぎげんぎ)」、同じく僧、慈円(じえん)の「愚管抄(ぐかんしょう)」もまた幽冥論である。 幽冥界(ゆうめいかい・かくりよ)とは、ここでは、「人が死んでから逝く世界・死者の国」であると、おおざっぱに定義しておく。 この国の「死者の国」は、超絶した彼方の世界に飛躍する西洋の世界感とは大きく違って、私たちの生活する日常世界の背後に重なるようにして存在する。 あの世は、死者が草葉の陰に身をひそめることであり、すぐそこにいるのだ。 “こなた”の日常世界と、“かなた”の幽冥界は可視と不可視の違いが在るだけである。 私は16歳の時に始まった「体外離脱体験」によって、「幽冥界(ゆうめいかい)」をしっかりとみている。 40数年前には、自分に起きた体験を表わす言葉も概念もなく、連日にわたって起きた離脱体験は悪夢のようにいまわしい出来事として、「見ているのに見えない。知っているのに知らない」素振りをして、何とかやり過ごそうと悪戦苦闘していた。 やがて勇気を振り絞って魂の世界にゆくと、「すべての出来事が連関する環(わ)のように、私という命の作用に繋がっている」との深い認識を得た。 言いかえれば「生も死も同じ事象であり、死に臨めば生がきわまり、生に頽落(たいらく)すれば、死は罠(わな)をしかけて笑う」のだ。 16歳の少年から青年へと向かう私を一挙にからめとった「神秘現象」の本質を、ようやく語る時が来たと、その感慨にふけることができない。 その理由(わけ)は、「世界が、もう、終わってしまった」からであり、まだ世界の終りに気づいていない人たちにむけて「世界の終わりを語る時が来た」からである。 こうしてブログを書いている間にも、太郎の家の屋根にも次郎の家の屋根にも、プルトニュームやセシュームの放射性核種が音もなく降り積もっている。 原発事故が世界の崩壊の原因であると言っているのではない。 それは、この世に現れた世界の終末の一つの表れであり、端緒(たんしょ)に過ぎない。 世間に流布されている「日月神事(ひつきしんじ)」のように、この世の終末現象を繰り返し述べて、人々に恐怖心を心に植え付けるだけの愚かな神をでっち上げているのは、この世の背後に潜むヘビのような血族と、その犬に成り下がった者らのしわざである。 「命の作用や、魂にいたる階梯(かいてい)を指し示すことのできない教え」は、そのままヘビの血族の愚かな属性に重なっている。 彼ら蛇族は、人間のように、こまやかな感性も情緒もなく、また仲間に共感する能力を持っていないので、イメージする能力がまったくない。 彼らは争うことによってしか生存できない宿命を負っている。 ブッダが見抜いたように「世界は人の想い(イメージ)でつくられている」ので、彼ら蛇族は、人の心を写して鏡のように反射することで、この世の事象を操っている。 幼い心のまま大人の身体に成長した人の自我(機能不全の自我)に宿って、宿主の心を叶わない欲望に渇望させながら、かれらは人を背後で操り、決して魂が本当に目覚めないようにと、自我を物や事に熱中させ、人の心を物に同一化させる。 ここでは、これ以上述べないが、かれらは人に憑依(ひょうい)して寄生する、この世に密接する異界の生命体である。 彼らを“ヘビの血族”と私が表現しているのは、かれらの冷徹なまでの長期計画(アジェンダ)遂行能力と非情なまでの残忍さをヘビに例えてのことであり、この世のヘビやその他、爬虫類とは一切関係がない。 人が本能的に恐怖する爬虫類に擬態(ぎたい)しているだけであり、この世では実体化できないので、憑依した人の脳のR複合体を駆使して、その残忍さを発揮する。 この世の神は、すべてヘビの血族がでっちあげた偽神である。 話を、戻そう。 民俗学や人類学のルーツは、人類発祥の始源の時空間と連なり、人が死んでから逝く「あの世」と通底する流れにちがいない。 この国の古代の祭祀をひも解くことが、この国の大地の地場によって形成されて継承された人々の無意識と、その太古の記憶を読み解くカギでもある。 ここで、「日本人の他界観」を前出の柳田國男と平田篤胤の著作から引用して整理しておこう。 (柳田國男「先祖の話」 ちくま文庫版「柳田國男全集」第十三巻より) 1-ひとは、死んだあとでも、この国のなかに、霊としてとどまる。 この国から超絶した彼方へ往くとは思っていない。 2-あの世とこの世という幽顕二界(ゆうげんにかい)のあいだの交通が、 頻繁に起こる。 定期的な祭りばかりではなく、死者からも生者のがわからも、招き招かれると いう生死往還、彼此往来(ひしおうらい)が、そんなに困難なことではなかった。 3-生前の念願は死後にも達成される。 だから死者は、子孫のためいろいろな計画を立てて、子孫を助けている。 4-死者はふたたび、みたび、この世に再生すると思っていた者も多かった。 *さて、それでは柳田國男の見解が平田篤胤の「霊能真柱(たまのみはしら)」を下敷きに展開されたといわれているが、今度は篤胤の「幽冥論(ゆうめいろん)」を整理してみよう。 (鎌田東二著作「平田篤胤の神界フィールドワーク』作品社から引用) 1-ひとが死後おもむくところ(他界・あの世)は、黄泉の国(よみのくに)でも天空の 彼方でもない。 2-霊魂も肉体と同様に、この国土にとどまる。 3-この国土は、顕明界(けんめいかい・うつし世)と幽冥界(ゆうめい界・かくり世) とに二分されるが、国土においては一である。 4-肉体は亡骸(なきがら)となって顕明界にとどまるが、霊魂は幽冥界へ往く。 5-他界からはこの世の光景がつぶさにみえるが、この世のがわからは他界を見る ことができない。 篤胤は、記紀でいう黄泉の国や天空の彼方の天上界に幽冥界はない、という。 「霊能真柱(たまのみはしら)」は全編が、服部中庸(はっとりなかつね)「三代考」の影響を受けて、記紀神話の三次元的な他界観『高天原―なかつ国―黄泉』を霊魂の往く世界だと認めていない。 篤胤のいう「幽冥界・あの世」は、この世とはっきり区別されるような確定的な領域ではなく、「この世」も同じように帰属している一所(国土)であり、「あの世」と「この世」は密接なかかわりを持った一体二重の世界だ。 平田篤胤は、「あの世」と「この世」は紙一重の世界であるという。 顕明界(けんめいかい)である「この世」は目に見えるが、幽冥界である「あの世」は、「この世」からは見えないが、「あの世」からは「この世」が見えるという。 本日のブログも長くなってしまった。 最後まで読んでくれた、あなたに感謝しよう。 次のブログもさらに長文になるかもしれないが、あなたが日ごろめったに触れることのない世界の話なので、面白いかもしれない。 次回も、異界を描くが、徐々に「人に憑依して寄生するヘビの血族」の実態を明かしていくので、読み逃さないよう、あなたにお願いしておく。
生と死は連環するメビウスの輪
(リルケ「ドウイノ哀歌」第一詠より引用) 『生きている者はみな、あまりにもきびしく生と死を区別する誤りを犯している。 天使たちはしばしば知らないという。 自分たちが生者たちのあいだを行くのか、それとも死者たちのあいだを行くのかを。』 世界中のほとんどの人が死を否定するか、恐れるかして生きている。 死について語ることは忌み嫌われ、人々は死を口にすることが死を呼び寄せると勘違いしている。 一方では、愚かな勇気をもって、陽気に死に対する人がいる。 「お迎えが来たら、きっぱりとして死ねばいいさ、私は大丈夫だ」と。 これらの二つの相反する態度は、ともに死の真の意味からほど遠い。 ほとんどの伝統的な宗教が、死は終わりではないと断言してきた。 各宗教がそれぞれに何らかの来生を信者に語り、その来生の展望が現生にいる信者に、聖なる意味を引き込んできた。 だが、このような教えにもかかわらず、現代社会は総じて精神的な砂漠状態になり果てている。 たいていの人が、いまの自分の生こそがすべてだと、そう思い込んでいる。 死後の生に対する本当を知らないまま、ほとんどの人が究極の意味を奪われた生を生きている。 死を恐れて、かえりみない人は、一代限りの人生を蕩尽(とうじん)して生き、破壊的な影響力を他人にも、環境にも及ぼす。 いまの生が唯一のものだと信じて、長期的な展望をもたずに、現代人は自然を破壊し収奪してきた。 そのような自己中心的な生き方が、次に生まれてくる小さな命に過剰なツケを残す。 アマゾンの熱帯雨林を守る立場にあったかつてのブラジルの環境大臣がこのように語っている。 「現代産業は一つの狂信的な宗教である。われわれは破壊し汚染している。 この惑星のあらゆる生態系を台無しにしている。 子供たちには返済不能な借用書に、われわれはサインをしようとしているのだ。 ・・・・われわれは、まるでこの惑星の最後の世代であるかのように振る舞っている。 心に、精神に、ヴィジョンに、根本的な変化が起きない限り、地球は火星のようになってしまうだろう。 黒く焼け焦げ、死ぬだろう。」 死への恐怖と死後の生についての無知が、環境破壊の火に油を注いで、わたしたちすべての生命を脅かし続けている。 わたしは、このような世界状況を考える時、三島由紀夫の遺作となった「豊饒の海」全四巻の最終巻である「天人五衰(てんにんごすい)」のタイトルを思い出す。 天人五衰(てんにん・の・ごすい)とは、仏教用語で、六道最高位の天界にいる神のような天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる五つの兆しのことである。 天界では神々のような天人が、途方もなく贅沢に暮らし、あたうるかぎりの歓楽にふけっている。 しかし、すべての欲望が満たされたかのようにみえる天人にも、死は静かに近寄り忍び寄る。 そしてあるとき、思いもよらなかった五つの衰えの兆しが現れる。 すると、それまで親しかった友や、妻や愛人までもが衰え始めた天人から離れはじめ近づこうとはしなくなる。 再び天に生まれてくるようにと、おざなりな祈りとともに、遠くから花を投げるだけだ。 幸福の思い出も、安楽な思い出も、目前の苦しみから天人を守ってはくれない。 天界での長寿と快楽の日々の思い出が、かえって今は衰えた天人の苦痛をなおいっそうに耐えがたいものにするだけだ。 こうして、死にゆく天人はひとり悲嘆のうちに死んでゆく。 このような天人の悲嘆を、三島由紀夫は自分の人生に重ねたのかもしれない。 若くして小説の才能が開花し、世界的にも名声を博した三島が、割腹自殺して自らの死を演出して自刃するまでの人生を思うと、「ひとり悲嘆のうちに死んでいく」ことの壮絶さがリアルなものとして、胸に迫る。 私たちの社会は、若さや、セックス、パワーに取りつかれ、老年や肉体が衰弱することを遠ざけている。 もう働けなくなったからといって年老いた人々を切り捨てるような社会は、地獄である。 年老いた者は何の役にも立たないというのか。 NHKの報道特集で、「老人の孤独死」を取り上げているのを見たが、忸怩(じくじ)たる思いであった。 友や愛する人が死にかけている時ですら、ほとんどの場合、わたしたちは彼らの力となるために何をすればいいのか、何も教えられてこなかったことを思い知る。 そして彼らが死んだとき、彼らの死後がどうなるのかと死んだ人の行く末を思ったり、死後の彼らのためになることを考えたりすることもない。 そのようなことは、無意味で馬鹿げたこととして退けられる。 前回の記事でも取り上げたエリザベス・キューブラ・ロスや、同じく医師のレイモンド・ムーディーといった先駆者たちのおかげで、ようやく近年になって、「死と死にゆくことについての様々な問題」が広く取り上げられるようになった。 エリザベス・キューブラ・ロスは、死にゆく人々に対するこれまでの対応について深く研究を重ねた。 彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。 やがて、わたし、ラクジのように体外離脱を体験したと主張した。 このようなものに感心を持つきっかけとなったのは、自分の担当していた患者が死に直面する時に、体外離脱を経験しており、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めるしかなかったという。 エリザベス・キューブラ・ロスは、無条件の愛と、より理解にとんだ態度で臨めば、死のプロセスがより平穏な体験になりうることを、あるいは超越的な体験にすらなることを明らかにしたのだ。 また、レイモンド・ムーディーの勇気ある仕事が端緒となって、臨死体験について様々な側面から多くの科学的研究がなされるようになった。 (レイモンド・ムーディーはアメリカの医学博士で心理学者。著書「かいまみた死後の世界」「死者との再会」などを通じ、臨死体験の研究で知られる。) 生が死をもって終わるのではなく、「生の後の生」が実際に存在するのだという認識が、科学的なアプローチによってもたらされたのだ。 (わたしが16歳の時から繰り返した「体外離脱体験」の現象が、ムーディー博士の本を介して初めて意味づけられたのだ。) しかし、死んでからまた生きるのならと、「死にゆくこと」の発見を誤解して、死を過度に魅力的なものとしてとらえる人も現れた。 死は美しいものであり、人生の憂鬱からの解放を信じて自殺する若者も増えた。 死を恐れ直面することを避けるのも、死を苦しい人生の避難先にすることや、ロマン化するのも死を矮小化することだ。 死への絶望も陶酔も、ともに生を逃避することと同じだ。 死とは陰鬱(いんうつ)なものでも、胸躍らせるものでもなく、単なる生の事実の一コマに過ぎないのだ。 私はこのブログにも書いたが、何人もの臨終に立ち会ってきたので、生と死が実は同じものの裏返しに過ぎないことを、知っている。 仏教のとらえ方では、生と死は一つで全体であるとされる。 そこでは、死は新しい生の新たなる章の始まりにすぎない。 死は生の意味の全ぼうを映し出す鏡なのだ。 死の概念に恐怖して、今を生きないことは愚かさの極みである。 生きあぐねて死に逃げ込むことは、地獄の沙汰だ。 死を学ぶことが、人生を生きることに繋がり、誰よりも自由に自分らしく生きることの秘訣を教えてくれる。 死を恐怖させる「小さな機能不全の自我」を捨てて、「今、この瞬間」の生の躍動にめざめることが、悟りに違いない。 私たちの世界は、今、まるごと衰えて死に向かっているが、それは新しい次元に生きることの始まりでもあるので、恐れることも、また待ちわびることも無い。 それは、もうやって来るのだから。 “成るように成る”ので、心配はいらない。 あの世の天国を夢見て、この世で天国に行く列車の切符を買おうとするような人生ほど愚かなものはない。 今を生き切る、この瞬間の命の輝きを自分の光として生き切る者だけが、穏やかな死を楽しめる。 あの世に、極楽も地獄もないことを良く知ることが、仏陀の知恵なのだ。
人の魂が、肉体という衣を身にまとっている。
人は死んでも、「あの世」で生き続けるのだろうか? それとも、命は消滅して肉体と一緒に土に帰っていくのだろうか? 一人に対面して私が「死後の世界」を話すと、話を納得してくれる人が多いが、大勢の人の前で話すと、何だか私が作り話をしているような、冷めた眼差しになる。 本当は「死んでから往く世界」があることを信じてはいるが、他人様の前では「そんな非科学的な話は信じようがない」という素振りを見せておかないと、常識が疑われると恐れているようにみえる。 仏教の教えでは、(ゴータマ・ブッダはあの世を説いていないが)人は死んだら、すぐに「あの世」にはいかず、「中陰(ちゅういん)」の世界で、四十九日間過ごして、「この世」での習慣や記憶の一部を消してから「あの世」に往くといわれている。 仏教は、開祖である仏陀が説いてもいない教説をでっち上げて、いまではすっかり葬式仏教に成り果ててしまったが、ここではそのことを問わずに話を進める。 「中陰・中有(ちゅうう)」は、チベット密教では「バルト」とよばれている。 チベット密教の「死者の書」については、別稿で述べる時がくるだろう、それまでは触れない。 とにかく、「中陰・中有・バルト」の世界は、死んで肉体から離脱した“人の魂”が 「あの世」の故郷へ帰る途中に必ず立ち寄る「船着き場のような波止場や駅舎」の役割をはたす世界だと例えておこう。 少し前に世界的にヒットした映画、指輪物語が展開される中ッ国や、ハリーポッターの魔法学校がある世界であり、宮沢賢治の物語、銀河鉄道の夜の舞台を想像すれば「バルト」がみえてくる。 ここで、あなたがいる「この世」に話をもどそう。 あなたが存在していると信じている、あなたを取り巻く世界やあなた自身の肉体も、さらには、他者との関わりによって起きる人生の出来事も含めて、それらは、あなたの脳が現出させている「夢のような幻想」かもしれない。 この世は、大脳にある視覚野に映像を結んで見ている世界像であり、色でいえば、紫と赤色が人の見る色の認識の限度であり、紫外線と呼ばれる放射線は見えないし、赤を超えた赤外線である電波もまた、あなたには見えない。 この世の事象とは、あなたが人として持って生まれた感覚器官や脳の働きによって限定された世界であり、あなたの五感に捉えることのできない事象は、存在しないことになる。 あなたが“心”と呼んでいるものは、実は大脳の作用に過ぎないのか? あなたの脳は、生涯にわたって認識作用をする「道具・ツール」であり、例えればバイオ・コンピューターのようなものかもしれない。 「道具である脳」は、あなたに使われて「道具」としての機能を果たし始め、使われるたびに便利になり、やがては洗練されて、あなたの使い方の個性が反映された「道具(脳)」になる。 しかし、パソコンを操作するあなたの存在自体が、コンピューターに内蔵されたOSやソフトによって働きを限定されている限り、やはり、心をコンピューターに例えることは不適切であり、人の心を機械やその作用に例えることの限度がみえてくる。 もってまわった言い方は、やめよう。 「心」は、コンピューターのような「脳」や、そのパフォーマンスではない。 「物のよ心」は、実体のあるうな存在ではなく、目に見えない「意識の作用」である。 「心」は、意識の現在進行形ingであり、その「はたらき」のプロセスを表わし、同時に意識の作用そのものを指し示しているのだ。 未来に、どんなに人工知能が発達しても、演算する能力だけでは、人の感情的な表現やイマジネーションを紡ぎだし、それを実現化する能力を持つことができない。 人が創り出したこの世の機械装置が、仮に人の心を真似てそっくりに振る舞っても、人間もどきであって、その心の綾なす繊細さや、独自の失敗などできないので、ユーモアーやペーソスもなく、ものを憐れむことや、笑うことがない。 「心」は自意識(あなたがあなたとして、独自性を保ちながら存在していると、自らを認識する意識)をもった、意識作用の現在進行形であり、プロセスそれ自体である。 「この世では、“あなたの魂”が、肉体の一部である脳を使って、意識の作用である「心」を絶えず生み出しているのであり、あなたの「脳」=あなたの「心」ではない。 私が「体外離脱」するときに、私から抜け出るのは「魂(たましい)」であり、「魂」は「心」のように認識作用を表わす言葉ではなく、実体のある精妙な存在である。 「魂」には物のように「質量」があり、同時に「波動」でもあるので、まるで「光」のようである。 「この世」に私、ラクジがいるときには、「肉体という衣に魂」を宿しているのだが、あなたはまだ気づいていないだけで、あなたもまた「魂が身体を衣のように纏(まと)って」いるのだ。 「死の瞬間」の著者である、エリザベス・キューブラー・ロス博士は、精神科医の立場から、階層、環境、年齢や性格の異なる700人以上もの人の臨死に立ち会い、その体験を本にまとめて、世界中に大きな反響を巻き起こした。 ロス博士は、 「私は、多くの人の臨死に際して、多くの超常現象を体験したが、特に幼い子供の死の瞬間における神秘現象は著しい。いま私は、死後の生を信じているのではなく、科学者として知っているのです」と述べている。 さらに、「新・死ぬ瞬間」で、ネイティブ・アメリカン、“スー族の祈祷歌(きとうか)”を 紹介しているので、ここに引用して、本日のブログを終了する。 (スー族の祈祷歌) 霊魂は生成することもなく、死滅することもない。 また、その存在を止めたときもない。 霊魂は永遠にして不滅である。 人生の終わりと始まりは夢でしかない。 生まれることもなく、死ぬこともなく、変化することもない。 死が霊魂に触れたこともない。 たとえ、霊魂の仮の宿、肉体が死んだように見えても。
私は、異界へ往還する。
宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序文の一節を引用。 (新編「宮沢賢治詩集」天沢退二郎編 新潮社文庫より) 『わたしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です』 わたしという存在が、仮定された有機交流電燈の灯の明滅現象であるという。 宮沢賢治の視線が、六道を輪廻する“修羅界”からの君臨する眼差しであることが、詩の始めに宣言されている。 賢治の創作の舞台には、いつでも異界の風が吹いている。 さぁーっと風が一吹きすると、舞台上の主人公が「この世」から「あの世」の次元の世界に移る。 銀河鉄道の夜でも、風の又三郎でも、この世に染みだす異界の割れ目から吹いてくる風に乗れば、現象世界の風景が一変する。 私が体外離脱の技を書くにあたって、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序文の一節ほどふさわしい前書きの言葉はない。 私が会得した技は、技芸であり、かつメチエでもあるので、このブログを読んで、誰かが私の真似をしても無駄である。 そのことを了解のうえで、読んでいただきたい。 それでは、開始する。 人の心に隠された無意識の領域には、幾層もの階層的な世界がある。 私が体外離脱する技として特別な闇の領域にタマシイを降下させるが、その領域こそが、ユング(深層心理学者)が名づけた集合的無意識の世界像に重なる。 まず、身体を安楽な位置において、目を閉じる。 まぶたの裏側に青紫色のボンヤリとした蛍のような微かな光が明滅するのを観る。 それらの点のような無数の蛍光を徐々に視覚化して、その光を一か所に集光する。 すると、はじめは明滅する点のように見えていた光が、にわかにこぶし大になって、鈍い光を放ち始める。 そのボール球のような光に意識を集中するでもなく、かといって無視するのでもないといった心持で、注意深くその状態を保持しているうちに、こぶし大のボールが突然、小さなミラーボールのように回転しながら煌めいて強い光を放ちだす。 まるで、燐光(りんこう)のようだ。 光が回転しながら、間隔を置いてスパークする瞬間を逃さず、タイミングよくボール球の中心をめがけて私の意識を投げ込む。 すると、(光玉の内側に入ったのだが)、いきなり真っ暗な闇の空間に漂い出す。 そこで、幽体となった私は、意識的にその暗闇を降下する。 地下のさらに地下に降りていくような感覚だ。 そしていつものように、私が地下世界に持っている「沈黙の館」の中に降り立つ。 その時々の目的に応じて、「沈黙の館」にある部屋を使い分けて、そこから「体外離脱」をするのだ。 16歳の時に初めて「体外離脱」したときのように、大きな力によって無理やり身をはがされるようにして異界に行かされるのではない。 私の40年近くにわたって体得された技によって、深い瞑想ともみえる次元で、一度は地下世界に通じる闇を降下して、さらにそこから今度は「幽体離脱」するのだ。 いったんは「体外離脱」して、無意識の深い層に降り立ち、そこから今度は「幽体離脱」をして異界を訪ねるようになったのは、「この世」での「憑依(ひょうい)」を避けるためであった。 今となっては、私に「憑依」は在り得ないのだが、モノと心が繋がる「類心的領域(プシコイド)」の境界線上に近接する地点に降り立てば、そこから自在に様々な異界に往くことができる。 私は十数年前まで、頻繁に海外に出かけていたので、ニューヨークやミラノなどの滞在先のホテルでも同じようにして異界を訪ねて問題はなかったのだが、その時に、「場所には記憶がある」ということに気が付いた。 「沈黙の館」には、大きな石造りの門がある。 この門と青銅製らしき門扉には、数多くの象徴的な図柄が刻まれている。 それらの図象を一つひとつ詳述すれば、各シンボル体系やその固有の意味が読み解かれる図象学の本になるだろう。 時期が来たら、代表的な図柄の解説をするつもりだ。 私の意識体ともいうべき幽体が舞い降りるのは、始めのころには中世ヨーロッパの石造りの街にあるようなイメージのアーチ形の橋のたもとであったが、今は「沈黙の館」の中央にある中広間に直接、降り立つ。 館は、石造りの大きな建物である。 地下は3階まで(地下3階には底なしの井戸がある)で、階上は外観からは5層に見えて、一見すると5階建てに思われるのだが、内部では4階までであり、わずかなスペースが5階にある構造になっている。 私が初めて「沈黙の館」に降り立ったときには、石の橋を渡って薄暗闇のなかに広がる街を歩いていくと空中から声がして、館の大きな門の前に導かれた。 ここから、初めて降り立った時のことを、物語風に語ろう。 ~* 私は声に導かれて薄暗闇の石畳の街を歩いていくと、大きな門の前に出た。 辺りは夜のしじまに包まれているのか、物音もなく人影もない。 青銅製と思われる門扉に向かって、「ここはどこか?」と訊ねると、また空中から声がした。 「ここは沈黙の館です。門扉は、あなたがやってくるのを待っていました。声に出さない沈黙の声で、館の中に入りたいと言えばよいのです」 声は女性のようだったが、定かではない。 導く声にしたがい、門扉に向かって「中に入りたい」と心でつぶやいた途端に、私は館の中の広間に瞬間移動していた。 広間の部屋の壁には、たくさんのローソクが灯っていて、橙色のやわらかな燈火がまるで手足のように拡がっている。 燈火によって部屋の重厚な壁や、質素で品のよい調度品などが照らし出されている。 濃いワイン色の厚い絨毯の床敷きには、緑色のらせん状の模様が描かれていたが、それらはよく見ないと、点描画の絵画にも見えて、ほら貝やおうむ貝のような、らせん模様には気がつかない。 室内は凛としていながら温かい気に満ちている。 再び声に促されて、広間から階段を下りていくと小さな控えの間があって、そこを通り過ぎて、いったんは廊下に出て歩いていくと、部屋の入口に着いた。 声は心に降りて「この部屋は荘厳の間です」とそう告げた。 ここまで述べてきた館の内部は、全体的に薄暗い景色なのだが、それでも視界に不自由はなかった。 「荘厳の間」に入っていくと、部屋の奥には木製の厚い扉が見えて、開けようとすると、また声がして「部屋の中で、あなたを待っている人がいます」と言った。 そっと扉を押し開けると、部屋の内部は先ほどの広間とは違って明るく輝いていたが、 光がなんだか黄色味がかっているように見える。 初めて訪れた「沈黙の館」で、まさか私を待っている人が居るとは、思いもかけない事だったが、いずれにしても私が会わねばならない人であることは間違いない。 部屋に入って、私を待ちわびていた人を見て驚いた。 部屋の中央には、私が17歳の時に枕元に現れた「神のように光る老人」が辛子色の衣装を着て立っていたのだ。 16歳から始まった連日連夜にわたった「体外離脱」にようやく慣れて、17歳になったときの朝に、白髪の豊かな頭髪を束ねて背中にたらすような髪型で「光る老人」が、現れた。 17歳の私は、「光る老人」と、会話したのだが、その時に老人から告げられた話の内容に納得がいかず、「早く僕を普通に戻してくれ」と抗議したのだ。 話のやり取りの詳細は、この後のブログに書くが、「光る老人」は、日をおかず再び朝方に現れて、私にあることを告げて消えたのだが、あれからすでに20年以上経っていた。 「沈黙の館」で、私を待っていた「神のように光る老人」に再び会って、私の「招命(しょうめい)」が何であるのかを、あらためて思い出していた。~* 本日のブログは、ここで終了する。 次会のブログでは、「白く光る神のような老人」が、17歳の私に現れて交わした会話の詳細を書こう。 ここまでの私の話は、私のイメージが創作した話でも、夢や瞑想で見た話でもない。 かといって、私の話を丸ごと読み手に信じてくれとも言わない。 ここに記述した事がらは、あくまでも私の内的な体験であり、私のリアルであるにすぎない。 それと知りつつ、私の話に何かを感じた方は、継続して読んでいただければ有難い。
私は何人かの臨終に立ち会ってきた。
子宮ガンの発見が遅れて入院した日に、余命2週間と医者に宣告されたご婦人のケースを話しておこう。 今から十数年前のことである。 Nさんのご主人から、私の携帯電話に連絡が入って「家内が4日前に病院に緊急入院して翌日手術をしたのですが、ガンが全身に転移していて、あと2週間の命だと医者から言われました。 家内が私に、あなたに病院に来てくれるように連絡してほしいと何度も頼むので、ご迷惑かも知れませんが、家内を見舞ってやっていただけないでしょうか」と言われました。 私がすぐに病院に見舞いに行くと、奥さんのNさんがベッドで不安そうな面持ちで、かすれた低い声で、昨晩見た不思議な夢の話を語りだした。 「見たこともないような大きな屋根瓦のお寺のような建物に私が入ろうとしたら、お坊さんのような服を着た身の丈2m余りの大男が現れて立ちはだかって、私が建物に入ろうとするのを阻止するんです。 薄暗い夕暮れのような時でした。 大屋根の向こう側に見えている景色がこの世のものではない,薄いオレンジ色の世界で、遠くの木々が揺れて立っているように見えて、とても怖くなりました。」 Nさんの身体には静脈注射のチューブや、私には判別できない測定機器の管が取り付けられたままだった。 「大きな四角い石が建物の前の石畳みに埋め込まれていて、私はその真ん中辺りに立っていたのですが、建物には大男にさえぎられて入れないし、四角い石の形から外に出たら、建物の屋根越しに見えている不気味な世界に引き込まれそうで、先にも行けず後にも引けずで、そのままそこに立っていたら、今度は小さな丸坊主頭のやっぱりお坊さんのような年寄りが現れました。 言葉は話さなかったのですが、身振りでここから帰れと言っているんです。 そこで、目が覚めました。 私はこの病気で死ぬんでしょうか?」 息も絶え絶えに、Nさんは私に、そう言った。 それから7か月余り、Nさんは病床にありながら年若い二人のお嬢さんを励まし、旦那さまに感謝して逝かれた。 昏睡状態になる前に、私はNさんに「臨終の作法」を授けた。 手術後のNさんの容態がにわかに安定して、一時は帰宅できるほど回復したのだが、再入院してからはNさん自身が死を受け入れたようだ。 私は毎週、Nさんの病室に土曜日の午後3時間ほど、お見舞いに行っては、4人の家族の輪に加わって、仏陀や魂の世界の話をした。 病院のスタッフは、私の存在を不思議な人物としてみていたようだが、患者本人が家族ともども私を待ちわびている様子を見て、自分たちには理解できないけれど、怪しい人ではないと見方を変えたようだ。 昏睡状態になる一週間ほど前の、Nさんとの会話です。 「私はこの病気で死ぬんですね」と家族のいない病室でNさんは穏やかな口調で私にたずねた。 「私もいつか死にますし、人として生まれたら毎日が死んでいく旅路のようなものです」と、答えた。 「この病気で死んでいくことを私は受け入れたので、臨終の際にどんなふうにしたら良いのか教えてください」とNさん。 「人によって多少は違っていますが、お迎えの合図が必ずやってきます。 それは死ぬ三日ほど前に、あなたより先に逝かれたなつかしい誰かが夢の中ではなく、この病室に陽炎のように浮かんで現れて、あなたに死ぬ準備をするようにと導いてくれます」私がそう言うと、一瞬、Nさんは嬉しそうな顔をした。 「その人の声が、耳からではなく、心に響いてくるようにお腹から聞こえてきますし、あなたもその人に尋ねてみたいことや、気がかりなことがあれば、心の中で唱えるようにして話しかけてみてください」 私の話をベッドに横たわったままのNさんは、うなずきながら聞いていた。 私がNさんに起きる死への作法をさらに詳しく話し終えると、Nさんは私に 「わたしが死んだら、葬儀で弔辞を読んでください」と頼まれたので、それを引き受けた。 昏睡状態になって3日目にNさんは意識を取り戻して、担当の医者を呼んで「一切の延命治療はしないでください。ただし、苦痛をやわらげる処置だけは死ぬまで続けてください」と、そう言うとまた昏睡状態に戻った。 Nさんの臨終の場に、私は旦那さまと二人のお嬢さんと一緒に立ち合った。 全身を襲う痙攣に身体が何回か震えて、ガクッと身体から魂が抜け出ていった。 Nさんの手を家族と私が握って、この世の人生を終えたNさんを見送った。 もうその時には、ご家族の方も「肉体が滅んでも魂がまた生まれ変わるかのようにしながら存在している」ことを心から確信していたので、苦痛から解放されたNさんを祝福するかのように、晴れ晴れとした表情だった。 Nさんは、病院からの外泊時に、お嬢さんを伴ってお寺に行き、ご住職に「私の葬儀はこのようにしてください」と依頼し、家に帰る自分の亡骸に「どんな服を着せようか」と思案しながら服を買い、遺影用の写真まで手配して死んで逝かれた。 あとに残される家族をこの世で生かす算段をキッパリとつけて逝ったのだ。 昏睡状態になる前、私に感謝の言葉を述べて、「私の葬儀が一段落したら、お父さんを飲みに連れ出してください」と言った。 「私も後から逝きますので、その時によかったら、お知らせの役をしてください」と言うと、Nさんは笑いながら「ゆっくりと来てくださいね」と答えた。 私とNさんの旦那様のFさんと二人で飲みに行ったのは、葬儀がすんで二ヵ月ぐらいたってからだ。 飲み屋街に出たことのないFさんを案内して、2件目には私の友人が経営するバーに連れて行った。 お勘定を私が払おうとすると、Fさんは胸のポケットからメモ書きを取りだして私に見せた。 そこには生前のNさんの字で、こう書かれていた。 「飲みに行ったら、一軒目はご馳走してもらいなさい。 2件目は、あなたが勘定を払いなさい。 3件目から割り勘にしましょう。 そうすれば、それから友達になれます」と、書かれていた。 臨死体験とは実はNさんのように、死んだあとから、生きている者を生かすような体験かも知れない。 世間では死に際のことばかりに関心がもたれて、肝心の「肉体が死ぬ前に、魂を覚醒する」ことに注意をはらわない。 私が臨終に立ち会った人の中でも、50歳の若さで逝かれたNさんのように、死を見送る家族をぎゃくに励ますようにして逝かれた方は初めてだった。 私がNさんに伝えた「臨終の作法」は、“目に見えるモノにしか関心がない”ときには、いくら教えても何も伝わらないが、“自分の死を受け入れて生きる人”には即座に理解される、魂の覚醒に関する教えである。 それは、「死にゆく作法」であり、そのプロセスの開示と、それぞれの段階に応じて示されていく「叡智(えいち)」なのだと、今はそう言っておこう。 < 前のページ次のページ >
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